大阪高等裁判所 昭和56年(ネ)1938号 判決 1984年4月26日
控訴人
堀川幸子
右法定代理人親権者父
堀川博之
右同母
堀川佐代子
控訴人
堀川博之
控訴人
堀川佐代子
右三名訴訟代理人
宇多民夫
吉村洋
村林隆一
今中利昭
田村博志
井原紀昭
千田適
松本勉
被控訴人
学校法人関西医科大学
右代表者理事
岡宗夫
右訴訟代理人
米田泰邦
前川信夫
佐藤雪得
森恕
鶴田正信
主文
本件控訴をいずれも棄却する。
控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 控訴の趣旨
原判決を取消す。
被控訴人は、控訴人堀川幸子に対し金八五六万五〇〇八円、同堀川博之に対し金二〇〇万円及び同堀川佐代子に対し金二〇〇万円とこれらに対する昭和四九年五月一九日から各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
仮執行の宣言
二 控訴の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一、二<省略>
三 控訴人らの主張
診療契約は人間の生命身体の保全という根源的な法益にかかわるものであるから、被控訴人は診療契約に付随する職務として、診療行為及びその結果につき患者やその家族を納得させるための説明義務を負うものである(右義務は診療行為の結果、例えば失明についての医師の責任の有無とは別個のものである)。
しかるに、被控訴人担当医は昭和四六年三月二三日控訴人佐代子に対し「眼科に関し予後不良になること」を説明したのみで、それ以前において同医が認識していた硝子体混濁も、本症が発症したことも、その症状がオーエンスⅢ期に至つたことも、水晶体後部繊維増殖症となつたことも全く控訴人博之、同佐代子に説明しなかつた。
患者やその家族に対し、診療行為及びその結果につきどの程度まで説明すべきかは単純に言えることではないが、本件の場合は少なくとも控訴人幸子の目に本症が発症したこと、混濁があつたことなどの症状や、それが何を意味し、被控訴人としてどのように対応していくか、及び予後の見通しにつき説明すべきであつた。被控訴人担当医は右義務を怠たり、控訴人らを急に失明の事実と向き合せることによつて、控訴人らに対し著しい精神的打撃を与えた。<以下、省略>
理由
(<証拠省略>)
第一当事者
一請求原因一項1の事実は当事者間に争いがない。
二<証拠>によれば、同一項2の事実を認めることができる。
第二控訴人らと被控訴人の法律関係等
控訴人幸子は、昭和四五年一二月二七日門真市末広町三五六番地の一飯藤産婦人科医院において、在胎二八週間、出生時体重一、一八〇グラムで出生し、翌二八日、その両親控訴人博之、同佐代子及び右両名を法定代理人とする控訴人幸子と被控訴人との間に、被控訴人香里病院未熟児センターにおいて、未熟児である控訴人幸子を保育医療するという事務処理を目的とする準委任契約が成立し、野呂医師、斉藤医師は、被控訴人の被用者として、控訴人幸子の保育医療にあたつたことは、当事者間に争いがない。
第三控訴人幸子の臨床経過
<証拠>を総合すれば、次のとおり控訴人幸子の出生状況とその後の臨床経過を認めることができ<る。>
一控訴人堀川佐代子は子宮頸管拡大症で、控訴人幸子の出産予定日は昭和四六年三月一八日であつたが、昭和四五年一二月二七日午前六時三分、在胎二八週三日、生下時体重一、一八〇グラムで出生し、出生時の状態は仮死一度、アプガールスコア五点、チアノーゼ、呻吟が認められた。このため、直ちに保育器に収容し、酸素投与をした。
二翌日(昭和四五年一二月二八日)午後〇時三〇分、香里病院に入院し、入院時の状態は、体重一、一七〇グラム皮膚赤色、皮下血管透視され、爪短かく、小陰唇露出、運動不活発、泣声弱、体温三四度、筋緊張に乏しく、すべての所見は強度の未熟児を現わすことから成熟度八点(三〇点満点)、脈拍は毎分一二〇回、呼吸数は毎分六〇回、七四回(以下いずれも一日三回の測定値のうち一回のそれを示す)、レトラクションスコア三、四肢末端にチアノーゼ、浮腫、低血糖症が認められたので、引き続き保育器に収容し、同器内の状態を酸素濃度二五パーセント、温度30.5度、湿度八〇パーセントに維持し、二〇パーセントブドウ糖二〇CC、メイロン三CCの静脈注射し、X線所見によれば、肺拡張不全であつた。
三控訴人幸子の全身状態等
1 一二月二九日、前夜、チアノーゼは四肢末端、口、鼻周囲に少々、浮腫全身、呼吸数毎分八〇回、啼泣時呻吟様、体温三五度、手足の動き活発なるも痙攣様。
午後、呼吸数毎分五〇回、不規則、排便、排尿、軽度の黄疸
2 一二月三〇日、呼吸数毎分五〇回前後、不規則、シーソー呼吸、呻吟なし、浮腫全身、黄疸やや増加。細管栄養で乳汁(3.0ミリリットル)を注入開始(三時間毎)。
3 一二月三一日から昭和四六年一月一日、顔面チアノーゼ気味(三一日)、呼吸数毎分六〇回(三一日)、六二回(一日)、不規則、体温やや上昇、運動活発。
4 一月二日から一月三日、呼吸数毎分六四回(二日)、六〇回(三日)、不規則、シーソー呼吸、運動活発、啼泣少い。力強い、一般状態良好、黄疸色増、血清ビリルビン値一デシリットルあたり15.9ミリグラム、光線療法開始。三日午後、全身チアノーゼなるも酸素増量にて消失す、運動せず、啼泣なし、黄染著名にて光線療法開始。
5 一月四日から一月六日、呼吸数毎分六四回(五日)、七二回(六日)、不規則、レトラクションスコア二、血清ビリルビン値一デシリットルあたり10.3ないし9.7ミリグラム、光線療法二四時間で中止。膿疱右胸部にあり培養。
6 一月七日から一月一一日、呼吸数毎分六四回、六〇回(いずれも八日)、不規則、レトラクションスコア一(九日)、胸部の膿疱よりブドウ球菌を検出、自然治癒。運動活発、授乳三〇ミリリットルの八倍増加。体重一、〇〇〇ないし一、〇六九グラム。
7 一月一二日から一月二三日、呼吸数毎分六〇回(一三日)、七二回(一六日)、六四回(一九日)、不規則ないしやや不規則、シーソー様呼吸(一五日午後七時)、体重やや増加、一月一九日一、二三五グラム。
8 一月二四日から一月二七日、呼吸数毎分六〇回(二四日)、六八回(二七日)、二四、二五日は不規則、二六、二七日は規則的になつたり不規則になつたりする、体重順調に増加、体温三六度ないし三七度。一般状態良好。
9 一月二八日から二月四日、呼吸数大体毎分七〇回(二八日)、七六回(三〇日酸素投与打切直後)体重一、四五五グラム。
10 以後、特段異常なく、四月二日退院。
四酸素の投与
入院当日から昭和四六年一月三〇日まで、酸素を投与し、酸素濃度は、昭和四五年一二月二九日、三〇日は三〇パーセント、その余は二五パーセント以下である。
五眼底検査の所見等
1 昭和四六年一月一九日、両眼とも硝子体混濁のため眼底見えない。
2 一月二九日、硝子体混濁し、反射の光を利用して見たところ網膜の色が正常の色調よりも蒼白に見えた。
3 二月一六日、硝子体混濁があり、ぼんやりと両眼とも動脈、静脈ともに蛇行、怒張が強く見え、左眼は右眼に比し、外側部の方に少し青白く混濁しているように見えた。本症のオーエンスの一期に入るかどうかという時点であつた。リンデロンシロップ(副腎皮質ホルモン剤)の投与を開始した。
4 二月一八日、右眼の瞳孔が正円形であるべきところ楕円形になつており、これは虹彩又は脈絡膜の炎症によるものであると考えられ、アトロビンを点眼した。左眼は硝子体混濁で全く見えなかつた。
5 二月二三日、硝子体混濁がやや良好となつたが、依然として両眼ともぼんやりとしか眼底が見えない。左眼は外方赤道部の近くに盛り上つた網膜の混濁が見られ、オーエンス二期の初期と考えられた。ユベラ(ビタミンE剤)の投与を開始した。
6 三月二日、右眼は、硝子体混濁が(十一)で少し減少、視神経乳頭の境界はやや不鮮明であるが、色は大体正常で、血管は蛇行も怒張もない。左眼は、ぼんやりと見える血管の状態、周辺部の状態から判断して、網膜の盛り上り、混濁、血管の増殖が認められ、オーエソス二ないし三期と考えられた。
7 三月九日、右眼は、中心部における硝子体混濁が強くなり、乳頭部見えず、動脈が細くなり、静脈が太くなり本症の増悪する一つの傾向を示し、網膜も中心部が混濁し、周辺部はやはり硝子体渇濁のため詳細不明。左眼は、硝子体混濁が強く、わずかにみえるところから判断してオーエンス三期に相当する変化があるように思われた。
8 三月一一日、特に変化なし。
9 三月一二日、右結膜下出血、瞳孔の開きが悪く、眼底検査できない。
10 三月一三日から一五日、散瞳のためアトロビン点眼。
11 三月一六日、右眼、硝子体混濁非常に増強し、血管わずかに判明するだけ。左眼は見えなくなり、一部で白く輝いている部分から本症と考えられた。
12 三月一七日から二〇日、散瞳のためアトロビン点眼、特段の変化なし。
13 三月二三日、右眼は、内下方に線維素の増殖が認められ、左眼は、線維でみたされ不詳であるが、内下方に白いかたまりが認められる。
右眼は線維の増殖が次第に増加傾向にあり、左眼は、硝子体が線維にみたされて眼底が見えない。線維分解酵素を投与した。
14 四月八日、右眼は、増殖した線維が前の方に膨隆してきており、後の方は混濁が存在する。左眼は、全面的に線維が増殖し、白色瞳孔を示している。線維増殖による眼圧の上昇が問題となるが、眼圧は正常で、毛様充血も示していない。
15 四月二二日、右眼は、線維増殖がある程度進行して、膜のようになる。左眼は、線維に満され、硝子体混濁。症状固定と判断。ユベラ(血管拡張剤)、ノイチーム(線維分解酵素)を投与した。
16 四月二四日以降、両眼とも四月二二日の時点で絶望的になつたが、わずかでも視力をとりもどせればと内服薬投与。
17 一〇月七日、投薬終了。
18 一〇月二一日、受診終了。
第四事故の発生
控訴人幸子が本症に罹患し、本症により両眼とも失明したことは、当事者間に争いがない。
第五被控訴人の責任
一医師の過失の判断基準
医師は、人の生命及び健康にかかわる医療行為に携わるものであるから、医療の専門家として、高度の臨床医学の知識に基づき、自己のなしうる最善を尽して患者の生命及び健康を守るべき義務があり、この義務に違反したことにより患者の生命または健康を害する結果を生じたときは、当該医師には法律上の過失があつたものといわざるをえない。
医療行為は、臨床医学の実践としての性質を有するものであるから、医師は、少なくとも当該医療行為のなされる当時における臨床医学の水準的知識に従つて医療行為を実施しなければならない。
当該医師の従うべき臨床医学の水準知識は次のように形成される。即ち、臨床医学は日々進歩して止まないものであるから、その知識の体系は確固不動のものではなく、特に先進的部分においては、常に病理現象及びその治療に関する新たな仮説が生成発展する。このような仮説は、医学界に学術的課題として提起され、基礎医学的または臨床医学的に研究、討論の対象とされ、その中で、数多くの追試が成功し、科学的な検証に耐え、学界レベルで一応正当なものとして認容されることが必要である。さらに、多くの技術や施設の改善、経験的研究の積み重ねにより、臨床専門医のレベルで、その実際適用の水準として、ほぼ定着に至つた場合はじめて、当該医師の行うべき臨床医学の水準的知識になる。ところで、一人の医師に全専門分野における水準的知識を期待することはすべてできないから、原則としてその専門ないし隣接分野におけるそれを期待しうるにとどまる。
ただし、具体的事案における特定医師の医療行為に対する過失判断基準としての医療水準は、当該医療行為のなされた時期、当該医師の専門分野、その置かれた社会的、地理的その他の具体的環境等諸般の事情を考慮し、具体的に判断されなければならない。
そうだとすれば、控訴人幸子の本症による失明について、被控訴人担当医の過失の有無は、被控訴人病院のごとく医療の研究教育機関の一部を構成する病院で未熟児保育医療を行つていた病院や、未熟児保育医療を先進的に取組んでいた病院(以下大学附属病院等という)において、実践されている本件当時の医療水準(臨床医学の水準的知識)によつて決すべきである。
二本症について
<証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができ<る。>
1 本症の初期の病態は網膜血管の増殖性変化であり(網膜血管の収縮、閉塞を原発性変化とする場合もあるが実験的には可能であるが臨床的所見としてはとらえられない)、つづいて発育途上の網膜血管が異常な増殖をきたし、網膜剥離を起して失明ないし強度の視力障害に至るものがあるとともに約八〇パーセソトがそこまで至らずに自然寛解する症患であつて、その発生原因は、いまだ医学的に完全に解明されているとはいえないが、その素因は網膜血管の未熟性にあり、未熟児保育に不可欠な酸素の投与が誘因となつて発生するものとされている。
右見解の裏付けとして、本症は、未熟児のうち在胎週数が短いほど、生下時体重が低いほどその発生率が高く、重症化しやすい酸素投与の期間ないし量が増すほど発生率が高くなることが報告されている。ただし、稀には酸素投与を全く受けていない未熟児に本症が発生した例が報告されており、児の個体差や酸素以外の因子の存在等が指摘されているけれども、本症発生の原因として、網膜血管の未熟性と酸素投与があげられることは、ほぼ異論をみないところである。
2 未熟児は、生理機能全般の発育が未熟であり、肺機能が未発達であるために無呼吸発作、呼吸窮迫症候群(RDS)、高ビリルビン血症などに陥り易く、このため、死亡に至り、又は生存し得ても、脳障害を残すことが多く、このような危険を未然に防止するため、酸素を投与されることが極めて多い。
呼吸窮迫症候群とは、呼吸数一分間六〇回以上、呼気時の呻吟、レトラクションスコアが未熟児で五点以上、酸素を補給しないとチアノーゼが現れるという四項目のうち二項目が一時間以上の間隔をおいて引き続き二回以上認められ、そのうちその原因が呼吸器外の異常による場合、肺疾患であつても肺炎、肺出血、気胸によると判定される場合を除外し得る症例をいう。
チアノーゼ、呼吸促迫は酸素不足の徴憑であり、不規則呼吸発作の兆しを示し、シーソー呼吸は呼吸障害の一つの症状であり、浮腫があり、未熟性の強いことは、肺硝子膜症に移行する可能性が大であり、低体温は、ノルアドレナリンというホルモンの働きにより、肺の毛細管を収縮させ、肺の機能を低下させ、呼吸性あるいは代謝性アヂドーシス酸欠症をおこし、一方呼吸中枢の興奮性をなくし、呼吸中枢を麻痺させる。
高ビリルビン血症の治療法としては光線療法が定着している。
呼吸窮迫症候群(RDS)について、出生児体重一、二五〇ないし一、五〇〇グラム以上の児においてはアルカリ輸液法の効果(生存率上昇)が認められているが、より低体重児では効果が疑わしいといわれており、昭和四六年、イタリアにおける報告によると、体重七五〇ないし一、二五〇グラムの児に関しては、アルカリ輸液法は生存率を高める効果は認められないとしている。
3 未熟児は、肺の未熟に加えて、種々の原因による呼吸困難、無酸素症が起りやすいので、必要にして十分な酸素を投与することが大切であり、そのために酸素濃度を四〇パーセント以下にすることという指標がたてられたこともあるが、同条件下での発生例もあり、本症の発生を避け、かつ、無酸素症による脳障害の発生を避けることができる酸素の濃度、投与期間については、定説がない。本症の発生は、保育器の酸素濃度ではなく、未熟児の動脈血中の酸素分圧(PaO2)の上昇によりもたらされるものであり、現在PaO2値が五〇ないし六〇から八〇ないし一〇〇ミリメートル水銀柱に保つて本症の発症を予防すべきであるとされているが、同条件下で発生した例もあり、PaO2値は、児の状態によつて変化することが多いので、頻回に測定する必要があるが、同一箇所から連続して動脈血を採取することはできず、そのために動脈血をたびたび採取することは、未熟児に危険を与える等困難である。国立岡山病院の山内逸郎医師は、昭和五〇年、右連続測定を可能とする簡易な経皮的測定方法をわが国に紹介し、これ以降PaO2の測定は大きく前進した。
4 本症は、臨床経過、予後の点より、Ⅰ型、Ⅱ型に大別され、Ⅰ型は主として耳側周辺に増殖性変化を起し、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるものであり、自然治癒傾向の強い型であり、Ⅱ型は、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症、血管新生が後極よりに耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、ヘイジィ・メディア(眼球の透光体の混濁状態)のためにこの無血管帯が不明瞭なことも多く、後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられ、Ⅰ型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的速い経過で網膜剥離をおこすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型である。右分類の他に、極めて少数ではあるが、Ⅰ、Ⅱ型の混合型ともいえる型がある。
Ⅰ型の臨床経過は、つぎの四期に分類される。
一期 血管新生期
周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないが、軽度の血管の迂曲怒張を認める。
二期 境界線形成期
周辺ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には、血管の迂曲怒張を認める。
三期 硝子体内滲出と増殖期
硝子体内へ滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも、血管の迂曲怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。
〔この三期は、前期、中期、後期に分ける意見があり、それによると前期は、極く僅かな硝子体内への滲出、発芽を検眼鏡的に認めた時期であり、中期とは、明らかな硝子体への滲出、増殖性変化を認めた時期をいい、後期とは、滲出性限局性剥離(境界線が後極側に向う扁平剥離や、境界線がテント状に硝子体内にはりだす時期)をいう。〕
四期 網膜剥離期
明らかな牽引網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の限局性剥離から、全周剥離まで範囲にかかわらず明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。
Ⅱ型発症の誘因としては、生下時体重一、四〇〇グラム以下、在胎週数三三週以下に集中しているというほか、特別の誘因は現在のところ見い出されていない。また、Ⅱ型の存在は昭和四六年ころよりその報告がなされるようになつた。
なお、オーエンスは、一九五四年アメリカ眼科学会で、本症の臨床経過を次のように分類、報告している。活動期、瘢痕期に大別され、その間に寛解期が入る。活動期は五期に分類され、第一期は、網膜動静脈の拡張蛇行が顕著であり、周辺部網膜に新生血管が散見される。第二期より進行し、硝子体混濁と広範囲の血管新生とが現われ、周辺部眼底に灰白色の領域が出現し、網膜に小出血斑が散在する。第三期は赤道付近の網膜隆起部から新生血管の細い束が間質組織を伴つて硝子体内に伸び、眼底周辺部では局在性の網膜剥離が出現する。第四期は、血管増殖が網膜の半周以上に及んだ時期であり、眼底周辺により広範囲な剥離に至つた時期をいい、硝子体大出血を伴うことがある。
5 眼底検査
眼底検査は本症の発生、臨床経過を把握するうえで、有効な方法である。ただ、出生時体重一、五〇〇グラム以下のものでは、ヘイジィ・メディアの存在のために眼底検査が満足に行いえない場合がある。
極小低出生体重児の場合、生後一週間目ころは産科医、小児科医は患者の救命に全力をあげており、眼底検査を行う状況にないことが多い。二週間目にはいると眼底検査を行いうる状態となる乳児も増加して、在胎週数、出生体重と合せ、眼底の成熟度を把握し、産科、小児科医にある程度発症の危険度に関する情報を提供しうるようになる。三週目にはいると、呼吸障害の持続している児以外は保育器外でも検査が行いうるようになる。
6 光凝固法
昭和四二年、永田医師によつて応用された光凝固法は、本症に罹患した未熟児の網膜の疾患部分に光を照射して焼き、網膜を光照射時における状態で固定し、症状の進行を停止させる治療法であり、本症進行過程の途中、遅くも活動期三基前半までに実施すれば有効であるが網膜剥離期にまで至つた場合は効果がないとされる。
しかし、光凝固法は昭和四五年末当時(昭和四六年二月頃も同じ)、永田医師が、昭和四二年秋と昭和四四年秋に臨床眼科学会において、その実施結果を報告し、眼科専門雑誌「臨床眼科」において昭和四三年四月、昭和四四年五月『同年一一月に合計一二例を登載して成果について肯定推せんの説明を加え岩瀬医師外が昭和四五年二月専門雑誌「小児」において光凝固法が提唱されている旨を紹介し、植村医師が昭和四五年一一月専門雑誌「小児科」において同法を紹介したほか文献に登載されることはなく、いわば臨床実験段階と言つてもよいほどのものであり、永田医師の影響を受けて田辺医師(名鉄病院)、大島医師(九大病院)、塚原医師(関西医大付属病院、滝井)その他も昭和四四年頃から追試的に光凝固をやり出した。塚原医師に関して言えば、昭和四四年秋に光凝固の機械設置、昭和四四年一一月一例、昭和四五年六月三例、同年九月一例を実施したが、有効例二例、無効例二例(各片眼)、片眼有効片眼無効例一例をえた。然しそれらの追試報告は一編も発表されておらず、その適応、予後、副作用、遠隔成績の検討、自然経過の比較等については今後の追試による検証をまつほかはない状態にあつた。
Ⅰ型は大多数が自然治癒するので、光凝固に踏切るには確固たる根拠がなくてはならない。三期に入つて硝子体中への発芽がみられるようになつても後極部網膜動脈の蛇行に進行する心配はないので週一回の眼底検査を行いながら慎重に経過をみてよい。硝子体中への血管増殖が日を追つて盛んとなり、後極部の血管増の拡張がみられるようになり、硝子体内への出血が出現するような場合は光凝固を行つておいて他眼の自然経過をさらに観察するのは良い方法であるが、硝子体中への増殖過程が強い場合三期の晩期になると網膜血管の耳側への牽引が起り始め、この時点で光凝固を行うと治癒しても二度以上の瘢痕を残すことがあるので、進行の速度などを考慮して的確に下さねばならない。
Ⅱ型は治療を加えないで放置するとまず絶対に失明する重症例であるが、このような症例は光凝固によつても治癒するとは限らない。生下時体重が極端に小さく、在胎週数も短く、酸素投与が長びいている症例では全身状態が許せば保育器の中にいるときから眼底検査を試みて眼底所見の動向をしつかりと把握しておくことがもつとも大切である。初回の眼底検査は遅くとも生後三週目には行わなければならない。このような例ではヘイジィ・メディアのため生後一ないし二週間は眼底がきわめてみにくいが、眼底がはつきりみえるようになつたとき、すでにⅡ型の特徴的所見がみられることが多いので診断が確定し、全身状態が許せばただちに光凝固治療を開始した方が良いとされる。
なお、本件当時までに、永田医師はⅡ型に遭遇したことはなく、後日、Ⅱ型について、光凝固法によるも治療の不成功の例を経験している。
7 冷凍凝固法
本症に対する冷凍凝固法は、山下由紀子医師らによつて試みられた術法であり、昭和四五年一月から症例を選んで治療を行つてき、その臨床実験の結果について文献的発表をみたのは、昭和四六、四七年である。
三被控訴人担当医の過失について
1 酸素投与について
(一) 本件酸素投与時(昭和四五年一二月、同四六年一月)の大学附属病院等の酸素投与の医療水準について
<証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができ<る。>
右当時において酸素不足による死亡、脳障害の危険と酸素過剰による本症の危険を矛盾なく回避できる安全な酸素療法の基準は確立されていなかつた(現在においても、一層安全な酸素投与法が採用されているけれども、右各危険の発生を完全に回避できる保証がないこと前述のとおりである)が、未熟児の保育器内の環境酸素濃度は四〇パーセント以上にすると本症が発症する危険があるので、原則として四〇パーセント以下に保つべきだとされていた。チアノーゼや呼吸障害を示さない未熟児に対しルーチンに(定例的に)酸素を投与すべきか否かについては、大別して次の二説があり、それぞれ治療の指針となつていた。
積極説は、未熟児の肺の機能が未発達であること等から、一度無酸素症に陥いれば無酸素性脳障害や無酸素性脳出血を起す可能性が考えられる(特に未熟性の強い一五〇〇グラム以下の極小未熟児について)として、それらを予防するために必要な期間の酸素投与を肯定する見解で、従前から採用されていた投与法で、右当時も多数の大学附属病院等においてこの見解に従つた酸素投与がなされていた。
右積極説を裏付ける文献として次のものがある。
① 昭和四四年一二月改訂第六版「小児科治療指針」東京大学医学部小児科教室高津忠夫監修五五六頁「ただし、ルーチンに酸素を投与する場合酸素濃度は三〇パーセント以下にとどめる。」
② 昭和四一年一一月「新生児学」日本産科婦人科学会新生児委員会編二八一頁、「酸素濃度制限はチアノーゼのない未熟児にむやみに長時間高濃度酸素を吸入をしないようにということで、未熟児でチアノーゼがあつたり、分娩直後の仮死蘇生術のときは四〇パーセント以上であつて差支えない。」
③ 昭和三七年「新生児呼吸障害の治療」名古屋市大小川次郎、小児科診療二五巻一号四一頁。
消極説は本症の発症を予防するため厳格な酸素制限を強調し、チアノーゼや呼吸障害を示す未熟児に対してのみ投与し、右症状が消失すれば速やかに中止する旨説く見解で、我国において本症が増加傾向にあると警告されるようになつた昭和四〇年以降に強調され、本件酸素投与当時大学附属病院等の先進的医療機関における一つの治療指針となつていた。
右消極説を裏付ける文献は次のとおりである。
④ 昭和四三年九月「未熟児管理の現況」国立小児病院新生児未熟科奥山和男他、眼科一〇巻九号六三三頁、「チアノーゼが消失する最低濃度の酸素を投与し、ときどき酸素濃度を低下させて、チアノーゼが出現するかどうかを観察し、不必要な高濃度の酸素を与えることのないように努める。」もつとも同六三二、六三三頁には「呼吸障害を有するもの、あるいは呼吸障害がなくとも在胎三二週以下の未熟児は一般にPO2が低く、酸素を投与しても動脈血PO2が七〇ないし八〇ミリメートル水銀柱以下のものが多数あり、五〇ミリメートル水銀中以下のものもあらわれた」と記載されている。
⑤ 昭和四三年九月「未熟児呼吸障害症候群の管理」大阪市立小児保健センター第一内科竹内徹、眼科一〇巻九号六五六頁、「酸素濃度がたとえ四〇パーセント以下に保たれていても、この制限は金科玉条ではなく無制限・無批判に長期にわたることは絶対にさけるべきである。」
⑥ 昭和四三年三月「新生児とその疾患」パルモア病院院長三宅廉、二五〇、二五三頁、「酸素の使用を仮死又はチアノーゼのある場合にのみ止める。是非必要と思われる間のみ最小限度の使用に止める。」
⑦ 昭和四四年九月「未熟児網膜症例についての臨床的考察」青森県立中央病院眼科須田栄二、青森県立中央病院医誌一四巻三号四五〇頁、「未熟児には徹底して短い期間に最少量を与えるべきであるのが酸素治療の原則である。」
以上の事実が認められる。
右認定によれば、本件酸素投与当時の大学附属病院等の酸素投与の医療水準は、酸素濃度を原則として四〇パーセント以下に保ち、チアノーゼや呼吸障害を示さない未熟児(特に極小未熟児)に対し、ルーチンに酸素を投与すべきか否かは(右積極、消極両説のいずれかを採用するかは)、医師の裁量に委ねられていたと解することができる。
(二) 被控訴人担当医は前記第三、一ないし三のとおりの控訴人幸子の全身状態等に対し、同四のとおり、三四日間にわたり、酸素濃度三〇パーセント以下(三〇パーセントを二日間、その余は二五パーセント以下)の酸素投与をしたものであるが、同控訴人が在胎二八週、生下体重一一八〇グラムの極小未熟児で、入院当日を含めて当初の一週間重い呼吸障害の症状やチアノーゼを呈していたが、その後も呼吸数毎分六〇回以上の呼吸促迫、不規則呼吸等の症状を呈し、同控訴人の呼吸状態が完全に落ち着いていなかつたこと等が認められるから、右医療水準に照らし、同控訴人に対する酸素投与がその濃度及び期間において過剰なものとは到底言い難く、この点において酸素投与上の過失があると解することはできない。
右と判断を異にする書証及び当審証人中田成慶の供述は、右医療水準と異なる酸素基準(前記消極説のみによるべきだとする)をもとにして被控訴人担当医の過失を論ずるものである点において採用できない。
(三) 低体温改善義務違反と酸素投与上の過失について
<証拠>によれば次の事実を認めることができ<る。>
控訴人幸子は、入院当初の四日間(昭和四五年一二月二八日から同月三一日まで)は三四度台(以上)でほぼ三五度以下の低体温、その後昭和四六年一月六日までは三五度台(以上)でほぼ三六度以下の低体温(ただし一月三日は33.8度に下つたことがあつた)であつたが、同月七日から酸素投与を中止した同月三〇日までほぼ三六度台を維持していた。その間保育器内の温度はほぼ三〇度に設定されていた。被控訴人担当医はレクトラクションスコアのチェック項目としてあげられている呼吸状態、呼吸数、チアノーゼ、レントゲン検査の所見、強い未熟性を考慮して、控訴人幸子に対し酸素投与したものであるが、その強い未熟性の一つのあらわれとして、低体重や在胎週の短かさ等とともに低体温を重視したにすぎない。
右認定事実によれば、被控訴人担当医は控訴人幸子の低体温のみを大きな根拠として酸素投与したものではなく、また前記医療水準によれば、極小未熟児である同控訴人に対して酸素投与が肯定されるのであるから、酸素投与上の有無を検討する前提として、これ以上体温改善義務違反の有無及び右義務違反と過剰な酸素投与との因果関係を検討する必要はないというべきである。
(四) アルカリ剤輸血療法と酸素投与上の過失について
<証拠>によれば、アルカリ剤輸液療法は特発性呼吸窮迫症候群(IRDS)の代謝性アチドーシスを矯正するものであるが、酸素投与時に右症状があらわれたとき同療法が併用されることがあるけれども、同療法をもつて酸素投与に代替できるものではないことが認められるから、同療法をもつて酸素投与に代替できる旨の控訴人らの主張は採用できない。(同療法の効果についても前記第五、二2のとおりである)。
(五) 動脈血酸素分圧(PaO2)測定義務違反と酸素投与上の過失について
<証拠>によれば次の事実が認められる。
本件酸素投与当時、未熟児に対して酸素を投与する場合は、正確に動脈血のPaO2値を繰り返し測定し、この値によつて酸素投与の有無及び濃度を決定することが最も理想的な方法であるとされていた。しかし右PaO2値の測定には高価な器械を要することと、未熟児(特に極小未熟児において)より繰り返し採血することが極めて困難なこと等から、本件酸素投与当時ほとんどの大学附属病院でこれを実施することができなかつた。また右PaO2値がどの位の値になれば本症が発症するかについても必ずしも正確なデータはでておらず、一五〇または一八〇ミリメートル水銀柱以上が本症発症の危険があるとか、一〇〇ミリメートル水銀柱以下は本症の予防法として安全であるとか論じられていた。
右認定事実によれば、本件酸素投与当時動脈血のPaO2値を測定することは大学附属病院等における医療水準となつていなかつたと解されるから、被控訴人担当医が右PaO2値を測定しなかつたことにつき過失を問うことはできないものである。また右医療水準によれば、仮に被控訴人病院に設置されていたPaO2測定器械が本件酸素投与当時故障して使用できなかつたとしても、被控訴人において直ちに右器械を買い替える法的義務はないと解される。
よつて、その余の判断をするまでもなく、被控訴人担当医が動脈血のPaO2値を測定して酸素投与をしなかつた過失がある旨の主張は採用できない。
(六) 以上によれば被控訴人担当医に酸素投与上の過失を認めることができない。
2 眼底検査について
控訴人らは、控訴人幸子に対する眼底検査をもつと早期に頻回になすべきであつたと主張する。
本症発見のためになされる眼底検査実施義務が成立するためには、本症に対する有効な治療法の存在を必要とする。すなわち、医療の場面においては、いかに眼底検査を実施しても、これに続く有効な治療法が存在しなければ、その眼底検査は単なる検査のみに終るので何らの意味をもたないからである。病理研究や治療法の開発研究のためのみに行う眼底検査は法的注意義務に基づくものとはいえない道理である。
前記第三、五のとおり、被控訴人担当医は昭和四六年一月一九日、生後二四日目から眼底検査を行つているのであるが、控訴人幸子のような極小未熟児はヘイジィ・メディアの存在のために眼底検査を満足に行いえない場合が存し、生後二週目から三週目で眼底検査を行いうるもので、現に控訴人幸子の場合、眼底検査期間中を通じて硝子体混濁、網膜混濁が存し、眼底を十分に見ることができない状態にあつたもので、生後二四日目をもつて遅きに失したということはできず、その後の眼底検査の実施をもつて回数において不足ありという点も、右混濁の状態、瞳孔の開きが悪いという点からみて、必ずしも眼底検査の回数が少ないということはできない。また、本件当時、後記3、4のとおり、本症の治療法として光凝固法、冷凍凝固法が大学附属病院等の医療水準(臨床医学の水準的知識)に達していたものということはできないから、被控訴人担当医に法的義務として眼底検査義務を位置づけることはできない。
従つて、控訴人らの眼底検査義務違反の主張を採用することはできない。
3 光凝固法について
控訴人らは、本件当時、本症の治療法として、光凝固法が有効であることを一般に知見を得ていたもので、被控訴人担当医は適期に光凝固法を実施しなかつた過失が存すると主張する。
前記第五、二6のとおり、光凝固法は、本件当時、その実施結果を報告した報告、文献は応用者である永田医師の眼科学会における報告、論文と植村医師の論文だけであり、他の医師の追試結果に関する文献はなく、いわば臨床実験の段階と言つてよいほどのもので大学附属病院等の医療水準(臨床医学の水準的知識)に達しているとは言えず、本件当時以後、本症の臨床経過による分類として、Ⅰ型、Ⅱ型、混合型と分類され、Ⅰ型は自然治癒傾向が強いので、三期の前半を適期とし、Ⅱ型は必ずしも光凝固法が適法とするものではなく、光凝固法を実施するにしても、急速に進行することから児の全身状態さえよければ診断確定次第実施する必要があると説かれるようになり、控訴人幸子の臨床経過からみて、右眼はⅡ型、左眼はⅡ型ないし混合型と考えられ、控訴人幸子の両眼とも終始硝子体混濁、網膜混濁がみられ、光凝固法を実施するに困難な状況にあり、瘢痕期を迎えているものである。
従つて、控訴人らの右主張は採用し難い。すなわち、光凝固法の実施は法的義務として位置づけられない。
前記証拠によれば、斉藤医師は、昭和四五年一二月以前に、永田医師の眼科学会における報告を聞いており、附属病院(滝井)において追試として光凝固が施行されていることを知つていたが、後者からは著効があるようには聞かされていなかつたことが認められ、このような事実を考慮しても右結論を左右しない。
4 冷凍凝固法について
控訴人らは、本症に対し冷凍凝固法も有効であると主張するが、前記第五、二7のとおり、本件当時、冷凍凝固法に関する文献はなく、臨床医学の水準的知識とはいえないので採用できない。
5 結果回避のための説明、転医義務について
控訴人らは、永田医師、塚原医師という本症及び光凝固法に明るい医師が近隣にいたのであるから、控訴人博之、同佐代子に対し被控訴人担当医は控訴人幸子の症状、右事実を説明し、右医師らの受診を勧告すべきであつたと主張する。
しかし、右3のとおり、光凝固法は、本件当時、未だ大学附属病院等の医療水準(臨床医学の水準的知識)に達していず、まして控訴人幸子の罹患したⅡ型ないし混合型について何らの論文発表もない段階であり、永田医師が本件当時までに光凝固法に成功したとする症例にⅡ型は含まれていないことを考えれば、被控訴人担当医に右説明、転医義務を強いることはできない。
6 納得させるための説明義務について
<証拠>によれば次の事実を認めることができ、これを覆すに足りる証拠はない。
控訴人幸子が被控訴人病院に入院した昭和四五年一二月二八日被控訴人小児科担当医は控訴人博之に対し、控訴人幸子の未熟性が強いので、生命が助かることの困難さと未熟性のために予後が悪いことがある旨の説明をした。控訴人佐代子は控訴人幸子の入院後しばらくして右医師に対し、こんなに小さく生まれて大丈夫ですかと尋ねたことがあつたが、同医師から一応安心できる旨の説明を受けた。また被控訴人の香里病院では控訴人幸子の失明以前に失明に至つた未熟児はいなかつた。
被控訴人眼科担当医は、被控訴人幸子の本症が悪化し、光凝固治療をするべき段階に達したならば、被控訴人病院の滝井本院に転院させ、当時光凝固治療の追試研究を行つていた塚原医師らによる治療をする心づもりをしていた。前記第三、五(眼底検査の所見等)のとおり、被控訴人眼科担当医は昭和四六年三月九日控訴人幸子の左眼は硝子体混濁が強く、わずかにみえるところからオーエンスⅡ期に相当する変化があるように思われたので、以後同月二三日までほとんど毎日のように同控訴人の眼底をみるべく努力していたが、両眼とも終始硝子体混濁が強く、同月一六日左眼の眼底が見えなくなり、本症の症状を把握することができなくなつた。同月二三日同控訴人の両眼に急激に線維が増殖していることを認めたが、同医師もそれまでに診たこともない症例であつたので、とまどつた。特に右眼は本症の典型的な一定の段階を経ないで急激に続維増殖に至つたため、本症によるものか否かの診断すら下せなかつた。(同控訴人の右症状は、当時本症の先進的研究者の間でもほとんど知られておらず、後に本症の分類の中で明らかにされたⅡ型(激症型)ないし混合型に属する症例と解される)。同日被控訴人小児科担当医は、右眼科医より同控訴人の両眼が重篤な症状に陥つたことを聞き、来院した控訴人佐代子に対し、控訴人幸子の眼の状態が悪く予後不良なる旨説明し、詳細は眼科医の説明を受けることを勧めた。二、三日後被控訴人眼科担当医は説明を求めて来院した控訴人博之、同佐代子に対し、眼球の模型を示して控訴人幸子が未熟児であるために目が悪くなつたこと、視力は左眼がすりガラス越しに物を見る状態であり、右眼はうつすらと見える状態と推測されること、予後不良であるが今後の治療に期待をつないでみたい旨説明した。
控訴人幸子は同年四月二日退院したが、同控訴人の入院期間中、控訴人佐代子は一週間に二、三回、同博之は一〇日に一回位の割合で控訴人幸子の面会に赴き、看護婦から同控訴人の容態(主に体重、哺乳状態)を聞いていた。しかし右以外に控訴人博之、同佐代子が被控訴人担当医に対し、積極的に控訴人幸子の症状その他につき説明を求めたことはなかつた。その後の通院治療によつても同控訴人の眼の状態が思わしくなかつたことから、被控訴人眼科担当医の紹介なしに、同年七月被控訴人附属病院の滝井本院の塚原医師に診てもらつたところ、両眼とも失明と診断された。しかし控訴人博之同佐代子はなお被控訴人眼科担当医を信頼して通院治療を受けさせた。同医はわずかでも視力がとり戻せたらと思い投薬を続けたが、同年一〇月控訴人博之、同佐代子は同医に不信を抱き受診を止めた。同年一一月控訴人幸子は天理よろづ相談所病院の永田医師の診察も受けた。
控訴人博之、同佐代子は、その後本件提起に至るまで、被控訴人担当医に対し、控訴人幸子の失明その他の納得のできない点について説明を求めることはしなかつた。
以上の事実が認められる。
右認定事実、特に控訴人幸子の本症状は当時本症の先進的研究者の間でもほとんど知られていなかつたⅡ型(激症型)ないし混合型で、被控訴人眼科担当医にとつても予測外の急激な病状経過をたどつたこと、眼底検査をしても硝子体混濁が強くてほとんど見えないという決定的な障害があつて、本症の症状を把握することすらできなくなつていたこと、同控訴人の眼の予後不良が判明した時期(症状固定前)に、被控訴人小児科担当医または眼科担当医から、同医師の把握したところに従い、当時の症状、予後の見通し等について説明を受けていること、控訴人博之、同佐代子が被控訴人担当医に対し控訴人幸子の症状につき積極的に説明を求めたことも、右担当医が不誠実な応答をしていたという事情もないこと等によれば、被控訴人担当医において、所要の説明を尽していなかつたとは解されない。よつて控訴人の右主義は採用しない。
四被控訴人の責任について
前記のとおり、被控訴人担当医には控訴人ら主張のような過失は存しないので、被控訴人には診療契約または不法行為に基づく責任はないというべきである。<以下、省略>
(乾達彦 緒賀恒雄 馬渕勉)